呪縛からの自立を描く抽象的映画?
映画『愛されなくても別に』感想レビュー|南沙良×井樫彩監督が描く「不幸」と「愛」の哲学
映画『愛されなくても別に』は、井樫彩監督による青春群像ドラマであり、南沙良・馬場ふみか・本田望結がそれぞれ「親の呪縛」と向き合う姿を通して、「愛されること」「不幸」「自立」という普遍的なテーマを描き出す作品である。
夜明け前、重たい沈黙とともに生まれる小さな声── 今日も早朝から、彼女は目覚め、家事をこなし、バイトへと足を運ぶ。 その日常には、遊びも余裕もない。親からの言葉に縛られ、人との関係にも距離を置いてきた。 そんな彼女の、どこか諦めにも似た生き方。 だが、同じ場所で働く “噂される存在” との出会いが、その閉じた世界を少しずつ揺さぶり始める――。

……むっっっっっず!この映画、レビューを書くのがむずいヤツだ。哲学的なストーリー、抽象的な描写、象徴的な感情表現。どう解釈すれば良いのかわからない。だのにYahoo!映画では評価4.2。ウソやん、みんな解ったの?ちゃんと理解してるの??いや、悪い映画ではない。むしろ良い映画だと思う。映画のテーマもまぁ、薄っすらとだが、わかる。しかしかなり難解である。私が過去にレビューした中でもダントツに難解である。そこでひらめく逆転の発想。レビューを書くのが難しいのなら、レビュー書くのが難いってことを書けばよろしい。よろしいのだ。
ひとまず、映画『ナミビアの砂漠』とおんなじアパートが本作にも出てくる。外観も間取りも同じ。なんかあるのだろうか?そういう、解釈の難しい映画はこのアパートを撮影に使う、とかなんとか。
ちょっと何を書いたか自分でも忘れたので、読み返してみる。うん、果たして大したことは書いていなくて、なんの参考にもならなかった。どうしよう。
主要なキャラクターは宮田陽彩(南沙良)、江永雅(馬場ふみか)、それともう一人描かれるのが木村水宝石(本田望結)だ。それぞれが異なるかたちで「親の呪縛」に縛られている。陽彩の母は金にだらしなく、雅の父は事故を起こして逃亡中。水宝石の母は過干渉だ。
この中では、水宝石の母親が一番まともに見える。ちなみに水宝石は「あくあ」って読むんだけど、このキラキラネーム自体が、親の理想を子に押しつける象徴として機能しているのが印象的だ。母親の過干渉に苦しむ水宝石へ、陽彩が「大した不幸ではない」と言い放つ場面がある。しかし本作では、不幸とはそんな簡単には解釈できないように物語る。人と比べてどうこうではない、ということだ。だってそれ言っちゃったら、大学に通えてる時点で陽彩は不幸ではないと主張する人もいるだろう。そして、そのヒエラルキーには際限がない。とはいえ、人と比べるからこそ自分の方がより不幸だと思え、そしてそれが安心感をもたらすという描写もあり、一枚岩ではない。
つまり、「不幸中毒」の構造がそこにある。しかし同時に、「それでも他者と比べずに自分の痛みを見つめる」ことの難しさも描かれる。単なる親子ドラマではなく、他者との距離と自己肯定の狭間を描いた作品なのだ。
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そして重要なのは、陽彩自身もまた、母親を「愛している」からこそ自らを縛っている点である。母を憎むだけではなく、依存と愛着が同時に存在しているのだ。その二重構造が本作の核心だろう。
本作は、「愛とは何か」「親とは何か」「不幸とは何か」を多層的に語りかけているようだ。愛されること=幸せではないし、愛されないこと=不幸でもない。それを静かに問い続ける映画である。
結局のところ、『愛されなくても別に』は、人によってまったく違う形に見える作品だろう。哲学的で、抽象的で、難解。だがその難しさこそが本作の魅力だと思う。呪縛からの自立を描く抽象的映画として、長く記憶に残る作品ではないか。正直なところ、もうここらで「感じ方は人それぞれ!」で締めくくって終わらせたい。だってもう何を書きゃいいのかわかんないんだもん。
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『愛されなくても別に』あらすじ
ある日、陽彩は同じバイト先で働く同級生・江永雅(えなが・みやび)にまつわる噂を耳にする。それは、「雅の父親が殺人犯だ」というもの。地味で目立たない陽彩とは対照的に、派手な見た目の雅。だが、互いに他人と深く関わることに臆病になっていた二人は、噂をきっかけに少しずつ距離を縮め始める。
それぞれが抱える重さを背負いつつ、陽彩と雅は出会いを通じて、自分の中で「愛」「許し」「自立」といった問いに向き合うことになる。過去の傷と現実をどう扱うか、そして “愛される/愛されない” という価値観に、自分自身で答えを出そうとする物語だ。
『愛されなくても別に』映像で語る関係性と余白の美学
ゆったりしたテンポでスローモー。しかしながら展開で魅せるタイプの映画ではなく、映像で感じさせる作品なので、問題はなかった。っていうか、その間(ま)や沈黙、余白がちょうど良い。雅がじっと水族館の水槽を眺めるシーン、陽彩が川にたゆたうシーン、コンビニでの会話、それらどれもがその時々の人物間の関係性を暗示、というよりは明示している。
シナリオは重くところどころ激しめの描写はあるものの、なぜだか全体的な雰囲気は穏やかで、季節感・匂い・空気感の演出が徹底している。風鈴が涼を鳴らし、蚊取り線香の煙がゆるやかに漂い、そうめんをすする音が“夏”を立ち上がらせる。これらは単なる“風景装飾”ではなく、登場人物たちの情緒と密接に結びついている。気配で感じる季節=心の揺らぎみたいなもの。静かで趣があり、幻想的でどこか夢空間の中にいるような錯覚すら覚えた。
キャラクターは個性が強いというよりは、その背負った背景ゆえにディティールは深いが、個だけでみると風景に溶け込むといった感じ。しかしながら雅役の馬場ふみかは突出して演技力が高く、実年齢30歳という風には見え……、えっ!30歳!?女子大生演じてたけど!?すんげ!そう、演技面だけで言えば、馬場ふみかの存在感がズッと芯にある。静かな場面、表情の変化がおそろしく繊細で、その“間”を支配できる女優だ。彼女が画面にいるだけで、空気の濃度が変わる。
こうして書いてみると、私がこの章で言いたいのは、「本作は“語る映画”ではなく、“感じさせる映画”」だということ。物語の進行より、感情の層・関係の濃淡・意識の揺らぎを映像と音で伝えようとする。その挑戦があるから、難解だと思う人も多いのかもしれない。しかし、その難しさこそが、この映画の言語なのだろう。
親の呪縛と「愛」の歪み
映画『愛されなくても別に』をレビューする上で避けて通れないのが、親子関係だろう。上項でも上手く説明できている気はしないが、やはりそのあたりは欠かせない。
陽彩・雅・水宝石の三人はいずれも、親の価値観や存在、期待に縛られて生きている。つまり本作は「愛の形」を描くと同時に、「愛という名の呪縛」から抜け出す過程を描いた作品である。その愛は、親から子へという方向だけではなく、子から親への逆方向でも存在しているのだ。陽彩・雅・水宝石の、それぞれの自分自身が持つ親への存在からの脱却?とも言える部分だろう。
陽彩は母親の依存体質に悩みながらも、その母を完全には突き放せないでいる。拒絶しながらも、どこかで縋っている。その矛盾が、彼女の心を蝕んでいるが、しかしそれは実は矛盾ではなく、陽彩自身も母を愛するが故の不幸なのだ。
雅の場合は、父親の罪が彼女の人格を縛っている。逃亡中の父の影は、社会的な視線として雅に張り付いているのだ。だからこそ、雅は社会とは距離を取ったような、そしてそんな父親の子だからというあきらめとも見受けられる態度をしている。
水宝石は一見、家庭的にも恵まれているように見えるが、母親の過干渉が彼女の人格形成を歪めている。名前の「あくあ」という音の軽さとは裏腹に、その内面は重たい。「子を思う愛」が「管理」へと変質する恐ろしさを、本作は静かに映し出している。
タイトルの意味と「自立」への微かな光
タイトル「愛されなくても別に」は、一聞すると強がりのように聞こえのだが、実際には“諦め”ではなく“自立”として本作では使われている。愛されないことを恐れずに、自分の足で立つ。それこそが、登場人物たちがそれぞれの形で掴もうとする自由である。
陽彩は、母親への依存、母親からの依存を断ち切るわけでも、完全に許すわけでもない。その狭間にある、微妙な距離を見つけようとする。雅もまた、父の罪を受け入れたうえで、自分自身の人生を歩もうとする。彼女たちは「過去を切り離す」のではなく、「過去と共に生きる」道を模索しているのだ。
そのラスト、陽彩が見せる微かな表情の変化。言葉では説明されないその“間”に、この映画の答えが詰まっているような気がする。つまり、本作が描くのは「誰かに愛されること」ではなく、「自分を愛すること」への過程なのである。
映画『愛されなくても別に』は、観る人によって解釈が変わる作品だろう。けれど一つだけ確かだと私が思うことは、「愛とは、他人から与えられるものではなく、自分の内側で見つけるものだ」というメッセージ、テーマがそこにあるようだ。KinKi Kidsも歌ってたでしょ。「愛されるよりも愛したいマジで」って。
こんな人にオススメ!
映画『愛されなくても別に』は、ストーリーの派手な起伏や感情の爆発ではなく、静けさの中に沈む痛みや、心の揺らぎをじっくりと描く作品である。難解ではあるが、なんとはなしに感じる何かをつかみ取れるような映画だ。その静けさの奥にある真実を感じ取れる人にとっては、深く刺さる一本になるだろう。
- 抽象的な演出や哲学的なテーマの映画が好きな人
- 『ナミビアの砂漠』『淵に立つ』のような静かな人間ドラマに惹かれる人
- 「親」「愛」「自立」といったテーマを深く考えたい人
- 映像の余白や“間”から感情を読み取りたい人
- 感情を説明されるより、感じたい人
『愛されなくても別に』難解だけど、心に残る余韻の映画
本作は、決してわかりやすい映画ではないだろう。むしろ多くは語らず、視聴者の想像力に託すタイプの作品である。しかしそれは丸投げなのではなく、人の数だけ解釈が生まれることを期待しているのだ。よく解らないのに余韻が残るのがその証拠だろう。言葉にならない違和感や、説明できない痛み――それこそが『愛されなくても別に』の本質なのではないか。
視聴した後、陽彩の表情や、風鈴の音、夏の光。そのどれもが記憶の中に残り、ふとした瞬間に思い出される。たとえ「理解できなかった」としても、それでいいのだ。なぜならこの映画は、理解されるために撮られたのではなく、“感じてもらうため”に存在しているからだ。
映画『愛されなくても別に』――それは、誰かに愛されるのを待たずに、自分の中の愛を見つけていく物語である。静かな時の中に痛みや救いが織り込まれ、観る者の心にささやかな波紋を残す。派手さはないが、思考の余白が豊かで、観るたびに新しい感情が生まれるだろう(まぁもう一度観ようとは思わないのだけれど)。人との距離、愛の形、自立とは何か――そうした普遍的な問いが静かに沈殿している。
この映画を“難解”と感じるか“深い”と感じるかは、我々自身の心の状態に左右される。しかしながらそれは、どちらの受け取り方でも間違いではないということだ。愛されなくても、別に生きていける。そう思わせてくれる作品である。
映画『愛されなくても別に(2025年)』の作品情報まとめ(監督・キャスト・配信情報など)
- 監督:井樫彩
- 出演:南沙良, 馬場ふみか, 本田望結, 基俊介 (IMP.), 伊島空, 池津祥⼦, 河井⻘葉
- 公開年:2025年
- 上映時間:108分
- ジャンル:ドラマ, 青春