のんびり映画帳

映画レビューブログ「のんびり映画帳」。B級映画、配信作品、名作から地雷まで本音レビュー。感想だけでなく、独自の意見や考察を交えます。

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『アイ・アム まきもと』白鳥は何を意味する?直食いから盛り付けへの変化と“踏み込みすぎる優しさ”の正体

『アイ・アム まきもと』は、監督・水田伸生、脚本・倉持裕により制作された、2022年9月30日に日本で公開されたコメディドラマ映画。
ウベルト・パゾリーニ監督の2013年の映画『おみおくりの作法』を原作とする。山形県の市役所で「おみおくり係」として働く牧本壮が、部署の廃止を前に孤独死した男・蕪木の身辺をたどる過程を描く。牧本は元同僚やかつての恋人、疎遠だった娘・塔子を訪ね歩き、葬儀の実現に奔走する。主人公の牧本壮を阿部サダヲ、塔子を満島ひかり、蕪木を宇崎竜童が演じる。
共演は松下洸平、でんでん、松尾スズキ、坪倉由幸、宮沢りえ、國村隼ほか。

映画『アイ・アム まきもと』は、市役所の「おみおくり係」として身寄りのない人々を弔う職員・牧本壮を主人公にしたヒューマンドラマである。空気が読めず、周囲からは“迷惑な男”として扱われながらも、亡くなった人の人生に独自のやり方で踏み込んでいく姿を、阿部サダヲが演じている。

共演には、物語の中で重要な関係を持つ人物・津森塔子を演じる満島ひかりをはじめ、故人・蕪木孝一郎役の宇崎竜童、牧本と関わる神代亨役の松下洸平らが出演。それぞれの人物の背景が断片的に描かれながら、無縁死というテーマの中で人と人とのつながりが浮かび上がっていく。

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『アイ・アム まきもと』はコメディじゃない?観る前の印象とのズレ

さいきん、韓国ドラマの『イカゲーム』とか『ペントハウス』とか、映画では『フランケンシュタイン(2025年)』といった重めの作品を立て続けに観ていたため、正直少し疲れていた。がんばった。がんばった。

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気分転換に、できれば軽く観られる映画を選びたかった。そこで目に入ったのが阿部サダヲ主演の映画『アイ・アム まきもと』である。コメディだ。阿部サダヲと聞けばコメディの印象が強いし、実際に配信サービスでもジャンルとしてはコメディに分類されていた。

軽い気持ちで再生ボタンをポチっとな。実際に観てみると印象はかなり異なる。確かにコメディ要素はあるものの、中心にあるのは孤独死や無縁社会といった現代的なテーマであり、むしろヒューマンドラマとしての側面が強い。それでいて過度に感情を煽るわけでもなく、静かに進行するため、観終わったあとに整理しきれない感覚が残る。だのに余韻は深い。がんばった。がんばった。

決して面白くなかったわけではない。むしろ完成度は高く、評価を付けるなら★4といったところだ。阿部サダヲらしい間の取り方やキャラクター性は健在であり、キャスト陣も含めて安定した演技が続く。一方で、「自腹で他人の葬儀を行う」といった現実的にはやや誇張された描写もあり、その点は多少気になる部分ではある。

全体としては、視聴者との距離感が独特な作品である。強く感情を動かされるわけでもなく、かといって冷めるわけでもない。その中間のような感覚が続き、結果として余韻だけが残る。期待していたコメディとは違ったという意味では、なんかわからんけど騙された気分にもなった。

テンポはトントントコトンドンドコドン。早くもなく遅くもなく。大きな波はないが着々と歩を進め、「おみおくり係」の最後の仕事である、故・蕪木(かぶらぎ)の過去が明らかになっていく。

本作が扱うのは、現代社会における孤独死という問題である。身寄りがなく、遺骨の引き取り手が現れないケースも現実に存在する。それでもその人の過去を辿ってみれば、みなそれぞれにドラマがあるのだろう。そういった”想い”を感じさせられる作品だった。

これは決して他人事ではない。自分自身の状況に置き換えて考えると、作中の出来事が急に現実味を帯びてくる。私の場合、妹が私より先に死んだら終わる。もし自分が同じ立場になったらどうなるのか――そう考えたとき、恐怖というよりも、どこか避けられないものとしての感覚が残った。

「おみおくり係」は実在する?映画と現実の違い

映画『アイ・アム まきもと』に登場する「おみおくり係」は、実在する職種なのだろうか。

結論から言うと、「おみおくり係」という名称の職業は存在しない。ただし、身寄りのない人が亡くなった際の対応そのものは、現実の行政や関連業者によって担われており、機能としては実在しているようだ。

作中で描かれる業務は、現実では複数の役割に分かれている。

  • 自治体の福祉部門(生活保護担当など)
    身寄りのない人が亡くなった場合の初動対応や手続きの窓口になる。
  • 戸籍・住民課などの行政手続き部門
    死亡届の受理や戸籍の整理など、法的な処理を担当する。
  • 民生委員・地域包括支援センター
    生前の見守りや、死後の連絡調整に関わるケースがある。
  • 葬祭業者・特殊清掃業者
    遺体の搬送や住居の整理など、実務面を担う。

特に重要なのが、「行旅死亡人(こうりょしぼうにん)」という制度である。これは身元不明、あるいは引き取り手のいない死亡者を指し、自治体が法的に対応する仕組みが整備されている。

― AI調べ ―


つまり映画のように、一人の担当者が遺品整理から人間関係の掘り起こしまで行うケースは現実的には稀であり、演出として誇張されている部分が大きい。

現実はより分業的で事務的に進む。一方で本作は、その仕組みの上に「一人の人間が他人の人生に踏み込みすぎる」という物語的な視点を重ねている点に特徴がある。

 

『アイ・アム まきもと』はなぜコメディなのか?牧本の“察しの悪さ”の意味

本作『アイ・アム まきもと』の大きな特徴のひとつが、主人公・牧本壮の“ズレた人間性”である。一見すると単なるコメディキャラクターのように見えるが、その振る舞いには明確な意図がある。

牧本の会話がズレる理由|コメディとして成立するキャラクター設計

本作には、コメディとしての”まきもと”の間の抜けた人間性がある。おトボケたキャラ、周りが見えず突っ走る性格、かみ合わない会話など、作中では随所で彼の“天然”な言動と阿部サダヲの存在感が光る。

例えば、「あなた子ども居る?」と子息の存在を尋ねられているのに「要りません」と必要性で返したり、刑事が極秘書類を“わざと忘れていく”流れを作っているのに「取りに来るなら今持っていけば?」と返してしまったりと、会話のズレがそのまま笑いとして機能している。

孤独死というテーマを扱いながらも、どこかホワンホワンとした牧本のキャラクターが空気を過度に重くしない。コメディとしての緩衝材でありながら、それ自体が作品の味にもなっている。まさに阿部サダヲ適役といえる配役である。

なぜ空気が読めない人物なのか?物語を動かすための構造

一方で、このキャラクター性は単なる笑いのためだけに存在しているわけではない。

レビューサイトを見ると牧本を「めんどうな人間」「発達障害っぽい」「表現が過剰だ」として低評価を付ける傾きがあった。しかし彼のボケっぷりはコメディ要素としてだけでなく、映画的企てでもあるのだ。

結論として、牧本が「察しの悪い人間」として描かれているのは、物語のテーマである“他人の人生に踏み込むことの意味”を成立させるための設計である。

まず、「察しが良い人間」だと物語が始まらない。 普通の人間であれば、「これ以上踏み込むべきではない」「相手が嫌がっている」と察して引く場面で、牧本は引かない。だからこそ、本来なら埋もれて終わるはずの死者の人生にまで踏み込んでしまう。 この“ズレ”こそが、物語を前に進める原動力になっている。

次に、善意と暴力の境界を曖昧にするためでもある。 牧本の行動は一見すると誠実だが、相手の事情や感情を十分に理解していないまま踏み込むため、結果的に迷惑や摩擦を生む。その結果、

  • 善意なのか
  • 自己満足なのか
  • ただの迷惑なのか

という判断が観る側に委ねられる構造になっている。

さらに重要なのは、視聴者の認識を揺らす装置としての役割だ。 視聴者は最初、「空気が読めない厄介な人間」として牧本を捉える。しかし物語が進むにつれ、むしろ周囲の“察して終わる人たち”のほうが、他人の人生に無関心であることが浮き上がってくる。 この反転を成立させるためには、主人公は最初から“ズレた存在”である必要があるのだ。

つまり牧本の察しの悪さは、

  • 物語を動かす推進力
  • 善意の危うさを可視化する装置
  • 観客の価値観を揺さぶる仕掛け

として機能させた、意図的に設計されたキャラクターなのである。


総じて、牧本のキャラクター性は、孤独死というテーマを扱いながらも作品を重くしすぎないコメディとしての顔と、物語を前に進めるための構造的な役割を併せ持っている一挙両得キャラなのだ。そういったところを読み取る力もまた、映画を楽しむ上で必要な資質といえるだろう。

 

『アイ・アム まきもと』の演出考察|食事・墓・白鳥が示す意味

映画『アイ・アム まきもと』は、明確な説明を避け、些細な行動やカットの積み重ねによって人物の変化を描く作品である。一見すると見逃してしまいそうな描写の中にこそ、この映画の核心が潜んでいるのだ。

なぜ“直食い”から“盛り付け”に変わるのか?生活描写の意味

作中、自宅で牧本が夕食を摂るシーンが何度か描かれる。前半では、簡単なおかずをフライパンから食べ、炊いた米も炊飯器からスプーンですくって直接口に運ぶ。しかし物語が進むにつれ、次第に皿に盛り付けて食べるようになる。この変化は一体何を意味しているのか。

鍋から直食いは私もよくやるが
 
 

結論から言えば、その変化は牧本の「他者との距離感の変化=人間的な回復」を視覚的に示す演出なのであろう。

そもそも「器に盛る」という行為は、単なるマナーではなく社会性の象徴である。食事を整え、分け、順序立てるという行為には、誰かと生きる前提が含まれている。

  • 誰かと食べることを想定していない
  • 他者の視線を意識していない
  • 生活が自己完結している

前半の“直食い”は、そうした孤立の状態を端的に示している。

一方で後半、皿に盛るようになる変化は、単に丁寧さが増したという話ではない。

  • 他人の人生に触れ続けたことで、自分もまた誰かの中で生きているという感覚が生まれてきた
  • 食事を「処理」ではなく、生活として扱い始めた
  • 無意識に他者との共有を前提にし始めた

こうした内面的な変化が、あの小さな所作に表れていたのではないか。

もともと牧本は、他人のためには動けるが、自分の生活はどこか粗雑な人物である。

部屋の質感もミニマリストの私の理想
 

その彼が自分の食事に最低限の秩序を与え始めるというのは、他人だけでなく、自分自身もまた「人間として扱い始めた」というサインでもある。

セリフでは一切説明されないが、「誰かの死に触れ続けることで、自分の生の輪郭が少しずつ芽生え始める」——その過程が、あの盛り付けに静かに刻まれているのではないだろうかと私は思う。

なぜ自分の墓を他人に譲るのか?価値観の変化を読み解く

さらに象徴的なのが、牧本が自ら用意していた自分の墓を他者に譲る場面である。上述した内容のエビデンスと言ってはなんだが、この行動は、単なる親切心や美談として処理するにはあまりにも重い意味を持っていそうだ。

もともと牧本は、「誰にも頼らず、誰とも深く関わらずに生を終える」ことを前提とした人物として描かれていた。自らの墓を準備しているという事実は、その自己完結した死生観の延長にあるはずだ。

その前提が、ここで静かに崩れる。

  • 自分の死を自分で管理しようとする意識を手放す
  • 目の前の他者の人生を優先する

この変化は、制度や役割の範囲を超え、「個人として他者の人生を引き受ける」という段階への移行を示している。

さらに重要なのは、自己認識そのものの変化である。

  • 孤独のまま完結する存在から
  • 誰かとの関係の中で生きる存在へ

あの行動は、「いいことをした」という表面的な評価ではなく、牧本という人間の前提が書き換わった瞬間として機能している。

白鳥のカットは何を意味する?ラスト直前の象徴表現を考察

もう一つ、私が気にしたポイントがある。

終盤、牧本がカメラを衝動買いし、ファインダー越しに世界を見つめる場面がある。その直後に挿入される白鳥のカットは、現実的な連続性からはやや浮いて見える。何しろ山形といえど市役所があるそこそこ発展した街中であり、そこで白鳥が飛び立つというのは浮きまくる。この違和感は意図されたものだろう。

結論として、あの白鳥は出来事そのものに意味の層を与えるための象徴的なイメージではなかろうか。

白鳥というモチーフは一般的に、

  • 純粋さ
  • 静けさ
  • 移行(終わりと始まりのあいだ)

そういった意味を帯びやすい。そのイメージが挿入されることで、直後に訪れる展開は、単なる偶発的な出来事ではなく、「ある種の帰結」として受け取られるようになる。

白鳥の象徴性について(補足)

白鳥は古くから多くの文化圏において象徴的なモチーフとして扱われてきた。
たとえばヨーロッパ神話や文学では「純粋さ」「美」「超越的な存在」と結びつけられることが多く、白い羽毛と静かな水上の姿から、清らかさや静謐さの象徴とされている。

また北欧神話やケルト神話においては、白鳥は「人と異界を行き来する存在」として描かれることがあり、生と死、あるいは現世と異界のあいだをつなぐ存在と解釈されることもある。

さらに文学的表現では、「白鳥の歌(swan song)」という言葉が示すように、“終わりの直前に訪れる美しさ”や“人生の最終局面”を象徴する例も知られている。

― AI調べ ―

また演出的には、静と動のコントラストを作ることで、観る側の感覚を一瞬だけ引き延ばす役割も果たしている。唐突さを和らげるのではなく、むしろ質感を与えるための“間”なのだ。

重要なのは、このカットが明確な答えを提示しない点にある。意味を固定せず、観る側に解釈を委ねる余白として機能している。

そもそも本作は、すべてを言語化しきることを目的としていない。断定を避け、「分からなさ」を残すこと自体が設計に組み込まれている作品であるのだ。

だからこそ、この白鳥のイメージもまた、説明されるためのものではなく、観た者の中に残り続けるためのものなのだろう。だから、観終わった後の余韻が強い。納得はしきれないが、その曖昧さごと残る映画だった。

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こんな人におすすめ!

本作『アイ・アム まきもと』は、いわゆる分かりやすい感動作や王道コメディとは少し異なる立ち位置にある作品である。そのため、ハマる人とそうでない人はある程度分かれる。しかし、以下に当てはまる場合は強くおすすめできるだろう。

  • コメディの中にある“違和感”やズレを楽しめる人
  • 説明されすぎない映画、解釈の余白がある作品が好きな人
  • 派手な展開よりも、人間の変化や内面の揺らぎに興味がある人
  • 観終わったあとに「何だったんだろう」と考え続ける余韻を求める人

逆に、明確な答えやスッキリしたカタルシスを求める場合には、やや合わない可能性もある作品である。

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『アイ・アム まきもと』はなぜ“分からないまま残る”のか?余韻の正体

『アイ・アム まきもと』は、すべてを言葉で説明しきることを意図した作品ではない。むしろ、断定を避け、観る側に解釈を委ねることで成立している映画である。

牧本という人物もまた、単純な善人でもなければ、完全に理解できる存在でもない。コメディとして笑える一方で、その行動はときに不器用で、踏み込みすぎていて、どこか危うさを含んでいる。

しかしその曖昧さこそが、本作の核になっている。

誰にも看取られない死を扱いながらも、決して重苦しさだけで終わらず、どこか柔らかく、掴みきれない余韻を残す。その感覚は、明確な答えを提示しないからこそ生まれている。

だからこそ本作は、「理解する映画」ではなく、「引っかかり続ける映画」なのだろう。

観終わったあとに残る違和感や余韻こそが、この作品の本当の体験である。

 

映画『アイ・アム まきもと(2022年)』の作品情報まとめ(監督・キャスト・配信情報など)

  • 監督:水田 伸生
  • 出演:阿部 サダヲ, 満島 ひかり, 宇崎 竜童, 松下 洸平, でんでん, 松尾 スズキ, 坪倉 由幸(我が家), 宮沢 りえ, 國村 隼
  • 公開年:2022年
  • 上映時間:105分
  • ジャンル:ドラマ, コメディ

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