耳の聞こえない両親のもとで育った作家・五十嵐大のエッセイを原作とし、聴覚障害のある家族と健聴者の子どもの関係を描く。
宮城県の港町で育った主人公・大は、耳の聞こえない両親のもとで通訳の役割を担いながら成長する。やがて周囲との違いに葛藤を抱え、逃げるように東京へ移り住むことで家族との距離が変化していく。
主人公・大(五十嵐大)を吉沢亮が演じる。母・明子を忍足亜希子、父・洋一を今井彰人が演じる。共演はユースケ・サンタマリア、烏丸せつこほか。

映画『ぼくが生きてる、ふたつの世界』は、コーダとして生きる葛藤を、吉沢亮が静かに体現した作品である。
耳の聞こえない親のもとで育った子ども——いわゆるCODA(コーダ)の視点から、「ふたつの世界」のあいだに生きることの孤独と葛藤を描いた本作。原作は五十嵐大による自伝的エッセイ『ろうの両親から生まれたぼくが聴こえる世界と聴こえない世界を行き来して考えた30のこと』である。
主人公・大を演じる吉沢亮は、感情を抑えながらも確かに揺れる内面を繊細に表現。母親役の忍足亜希子、父親役の今井彰人は、ろう者としての生活をリアリティをもって体現し、家族としての温かさと、社会との摩擦の両方を自然に描き出す。
物語に大きな事件は起きない。それでも本作が多くの観客の心に刺さるのは、「どちらの世界にも完全には属しきれない」という感覚が、CODAに限らず普遍的な孤独として響いてくるからだろう。
家族を愛しながら、その世界から距離を取らなければ生きられない。その矛盾に正直に向き合った本作は、静かな日常描写の積み重ねの中に、観る者への問いを忍ばせている——あなたなら、どちらを選ぶか。
なお、本作は、フィクションではあるがエッセイをもとにした実話ベースの物語である。
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考察|"余白"か"空白"か——コーダ映画の構造から静寂の正体を読む
本作『ぼくが生きてる、ふたつの世界』を観終えた率直な感想は、「ふーん。で?」である。動も静もない。
描写はたしかに特殊で、同じ感度が持続する。これは構造上の欠陥ではなく、意図的な演出だろうとは思う。しかしその演出は、私には届かなかった。観終えたあとに残ったのは"余白"ではなく"空白"だった。
その違和感の正体を、映画の構造から紐解いてみたい。
■ 違和感の正体:因果と動機が存在しない
本作は明確に、
"因果でつなぐドラマ"ではなく、"状態を並べる映画"
になっている。私が覚えた違和感はすべてここに収束する。
- 役者志望 → 動機がない
- ライター志望 → きっかけがない
- 手話サークル → 導線も役割もない
つまり、
「なぜそれを選んだのか」という因果が、根本から抜け落ちている。
■ 通常の脚本との比較
一般的な映画脚本であれば、こう繋ぐ。
- 劣等感 → 表現欲求 → 役者
- 言葉への距離 → 書くこと → ライター
=一本のドラマライン
しかし本作は、
断片のまま並べている(=再構成していない)
「役者の面接を受けている状況」「ライターの面接を受けている状況」をいきなり映すだけで、演技の練習も文章を書く描写も一切ない。意図的であることはわかる。ただ、それは"唐突"として機能してしまっている。
■ なぜこうなっているのか——エッセイ原作の構造的限界
原作が自伝的エッセイであることが大きいだろう。エッセイとは本来、
- 「その時そう思った」
- 「気づいたらそうしていた」
という非連続な記録で成立するジャンルだ。映画化にあたっては因果の補強と動機の可視化が必要になるが、本作はそれをあえてやっていない。視聴者の想像に委ねているのだろう——そう解釈することはできる。
■ 手話サークルのシーンが示すもの
突然描かれる手話サークルのシーン。いつ入ったのか、なぜ入ったのかは説明されない。それでもこのシーンには機能がある。
- 家族の手話(=閉じた世界)
- 社会の手話(=開かれた世界)
の対比として、
「どこにも馴染めない状態」を可視化する装置
として機能している。ただし、出来事ではなく"配置"で見せているため、その意味が観客に伝わりにくい。
■ 役者志望という選択の違和感
吉沢亮が演じる五十嵐大は、東京に来てそのまま役者の面接を受けている。地元宮城での「東京に行く」という意思表示も、役者を目指すに至った経緯も描かれない。現実的に考えれば、
いきなり役者は選ばない。役者とは、生活基盤の上に乗る選択だ。
役者を選ぶなら、それ相応の強い動機があるはずである。
■ 映画側の意図(推測)
「何でもいいから別の自分になりたかった」
- 現状から離れたい
- 目標はない
- "別人になれそうな職業"を選ぶ → 役者
そういう衝動として描こうとしているのだろう、とは思う。しかしその衝動が一切提示されていないのが問題だ。現状への嫌悪や、別の人生へのぼんやりした憧れ——1カットでもあれば成立するのに、それがない。
- 意図:逃避+変身願望
- 見え方:生活無視の意味不明な選択
■ エッセイ翻案の構造的問題
原作には「とにかく何でもよかった」のような一文があるはずで、文章ならそれだけで成立する。しかし映画では、
- 内面(原作)→ 削除
- 行動(映画)→ そのまま提示
となるため、理由のない行動に見えてしまう。説明しない選択は正しいが、本来必要だったのは"説明"ではなく"推測できる痕跡"——行動前の視線、他人の一言、消去法の選択、そのどれか一つでよかった。
■ なぜ意図的に削っているのか
考えられる意図は3つある。
- 説明しない人生の再現——動機の曖昧さをそのまま出す。ただし「不親切」に見える。
- エッセイの質感の保持——断片性を壊さない。ただし物語性が弱くなる。
- テーマの構造化——「どこにも属せない状態」を再現するため、物語自体を意図的に不安定にする。
いずれも意図としては理解できる。しかし致命的なのは、意図と体験が一致していない点だ。
- 意図:不安定さの再現
- 体験:意味不明・説明不足
■ 総括——"余白"と"空白"は違う
意味はあるが、ドラマとして成立していない。
- 意図:ある
- 構成:弱い
- 結果:理解はできるが、納得できない
説明しないこと自体は、映画的手法として間違っていない。しかし本作が残したのは"想像の余地"ではなく、"情報の欠落"だった。余白と空白は似ているようで、観客の体験としては真逆に機能する——それが本作の核心であり、限界でもある。
評価★3の理由|淡々とした空気は本物、ただしドラマとして物足りない点
本作『ぼくが生きてる、ふたつの世界』のテンポはモルデラート——もっと言えば、徹底して淡々としている。
劇的な展開も、心を震わせるカタルシスもない。主人公が生まれた時から30歳ごろまでを、静かに、ただ静かに描く。Amazonレビューや外部サイトの評価は★4を軽く超えており、世間的な評価は高い。しかし私には響かなかった。同様に、感動作品や明確なカタルシスを期待して観ると「つまらない」と感じる可能性は高い。
理由は前項で述べた構造上の問題に尽きる。"映画"としての文法で観ようとすると、本作との間にすれ違いが生じる。ドキュメンタリーとして撮っていたら、また違う評価になったのではないか——その疑問は残る。
■ それでも駄作ではない理由
足りない部分を自分で補完できる人や、実際に身近にろう者がいる人なら、きっと共感できる作品だ。
何を隠そう、何も隠さないが、私の父はろう者ではないが手話ができる。子どもの頃、父に連れられた近所の居酒屋で、初めてその手話を目にした。耳の聞こえない人と手で会話している——純粋に凄いと思った。昔通っていた理髪店のろう者と友人になり、そこで手話を覚えたのだと後から聞いた。
つまり私も本作との距離は近からずも遠からず、だ。それでも響かなかった。残念ではある。★をつけるなら3、というのが正直な評価だ。
■ 作中に漂う空気は、確かに本物
ただ、本作の空気感は良い。「可哀そう」「感動」といった言の葉が中空に浮いていない。ありのままを描いている。
ろう者の両親を持つことへの葛藤も、誰もが経験する思春期のひとコマとして自然に描かれていて、過剰に煽り立てない。外部レビューによれば、原作者サイドから「感動物語にしたくない」「お涙頂戴にしたくない」という要望があったらしく、その姿勢はたしかに画面に宿っている。
個人的には、映画『ふつうの子ども』で印象的だった嶋田鉄太の出演に、思わず親近感を覚えた。
派手でも劇的でもない。しかしそれゆえに、純粋な気持ちでゆっくり向き合える作品でもある。ひっかかりや物足りなさは確かにある——それも含めて楽しもうとする姿勢で観れば、この静けさはきっと届くだろう。
気になった点の考察|リアリティの薄さと記号化された描写の問題
『ぼくが生きてる、ふたつの世界』の見どころは前項までで述べた。正直、それくらいだ。私にとっては見どころよりも引っかかりのほうが強く残ったので、そちらを整理していく。
■ エッセイベースなのに、なぜリアリティが薄いのか
まず、母・明子(忍足亜希子)の両親が手話をまったく使えない点が、どうしても腑に落ちない。画面の中では、簡単な手話さえ理解していないように見える。本格的に習っていないとしても、日常的に接していれば最低限の共有は生まれるはずだ。「どうやって娘を子育てしてきたのか」という疑問が先に立ってしまう。家庭内の独自ジェスチャーもなく、筆談もなく、母親は自身の両親と意思疎通を図らない——描写として必須の場面でさえも、だ。結果として「設定のための設定」に見えてしまう。
■ 授業参観のシーンが作為的に見える理由
主人公が授業参観に母親が来ることを嫌がる描写にも引っかかる。周囲の視線を気にしているのであれば、それは授業参観に限った話ではない。入学式、家庭訪問、学校行事——そうした場面での葛藤が時間をかけて積み重なって初めて、その感情は説得力を持つ。しかし本作はその蓄積を描かず、「授業参観」という一点に感情を集約してしまっている。本来なら連続的に積み上がるはずの違和感が単発のエピソードとして提示されることで、どうしても作為的な印象が先に立つ。
■ 三者面談のシーンに見える現実的な違和感
中学の三者面談の場面では、教師側が主人公の両親の状況を把握していないはずがない。にもかかわらず、筆談などの最低限の疎通手段すら用意されていない。現実的な配慮としてあまりに不自然であり、作品全体のリアリティを大きく損ねている。
■ 体験の連続性を削ぎ落とした代償
原作がエッセイである以上、体験ベースの連続性こそがリアリティの核になるはずだ。しかし本作は、その連続性を削ぎ落とし、出来事を象徴的な場面へと圧縮している。家族と社会という対立構造を「授業参観」のような分かりやすい場面設定に置き換えることで、テーマの整理には成功している。しかしその過程で、「なぜそうなるのか」という具体的な生活の手触りが抜け落ちている。
結果として本作は、「あり得る話」ではあるものの、「納得できる描写」には至っていない。体験をもとにしているはずの物語が、連続性を欠いたまま記号的に提示されることで、現実味よりも作り物としての印象が先に立つ——それが本作における最大の惜しさだ。
こんな人におすすめ|吉沢亮主演『ぼくが生きてる、ふたつの世界』はどんな映画か
本作は、明確な起承転結や感情の起伏を求める人には向いていない。「説明されない状態」や「断片の積み重ね」を受け入れられるかどうかで、評価が大きく分かれる作品だ。
ドラマとしての納得感よりも、空気・距離感・曖昧な感情の揺らぎをそのまま受け取れる人であれば、この作品の静けさは意味を持ち始めるだろう。
- 説明されない余白や曖昧さを「そのまま受け取れる人」
- 起承転結よりも"状態の描写"を重視する人
- CODA(コーダ)という立場や、家族と社会の距離感に関心がある人
総評|語らないことを選んだ実話映画は、あなたに届くか
本作は、良くも悪くも"語らないこと"を選んだ映画だ。その選択によって、リアルな曖昧さや居場所のなさを表現しようとしている点は理解できる。
ただしその結果として、観客が感情や動機を補完するための手がかりまでも削ぎ落とされている。だからこそ本作は、"余白"として機能するか、"空白"として感じられるかが、観る側に強く委ねられる。
言い換えれば、これは作品の良し悪しというよりも受け手との相性がはっきり出るタイプの映画だ。静けさの中に意味を見出せるか、それとも何も起きていないと感じるか——その分岐点に立つ一作である。
映画『ぼくが生きてる、ふたつの世界』の作品情報まとめ(監督・キャスト・配信情報など)
- 監督:呉美保
- 出演: 吉沢亮, 忍足亜希子, 今井彰人, ユースケ・サンタマリア, 烏丸せつこ, でんでん
- 公開年:2024年
- 上映時間:105分
- ジャンル:ヒューマンドラマ
