スティーヴン・キングの小説を原作に、命を懸けたリアリティショーに参加する男を描いた作品である。
近未来、富裕層と貧困層の格差が拡大した社会では、「ランニング・マン」と呼ばれる殺人ゲーム番組が人気を集めている。主人公ベン・リチャーズは、病気の娘を救うため賞金を求めて番組に参加し、30日間にわたり追跡者から逃げ続ける過酷なサバイバルに身を投じることになる。
ベン・リチャーズをグレン・パウエルが演じる。共演はジョシュ・ブローリン、ウィリアム・H・メイシーほか。

近未来。格差が固定化された社会で、人々は"他人の死"を娯楽として消費している。そこで放送されるのが、デスゲーム番組『ランニング・マン』だ。逃げ切れば賞金、捕まれば即死。視聴者もまた、懸賞金目当てに獲物を追う"共犯者"となる。
主演を務めるのはグレン・パウエル。『トップガン マーヴェリック』『ツイスターズ』で急上昇中のハリウッドの顔が、娘の治療費のために自ら"獲物"となる男・ベン・リチャーズを演じる。派手なヒーロー像とは一線を画す、追い詰められた人間の切実さがにじむ役どころだ。彼を追い込む冷酷なプロデューサーにジョシュ・ブローリン、番組を煽り続ける天才司会者にコールマン・ドミンゴ。キャストに死角がない。
原作はスティーヴン・キングがリチャード・バックマン名義で1982年に発表した小説で、1987年には『バトルランナー』として映画化された。今回メガホンをとるのは『ベイビードライバー』のエドガー・ライト。本作は単なるリメイクではなく、原作の精神に忠実な再構築として、"観る側"の倫理を鋭く突きつける一作に仕上がっている。
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爽快なエンタメ映画を期待すると肩透かし——それでも観る価値がある理由
映画『ランニング・マン』は、スリリングな逃走劇の末にきっちり逃げ切り、スッキリ爽快な気分で劇場を出る——そういう映画ではない。
その構えで観に行くと、正直なところ肩透かしを食らう。
視聴前は日本のバラエティ番組「逃走中」的なイメージを抱いていた。序盤こそ、ホテルへの突然の襲撃や緊迫した逃走シーンが緊張感を高めてくれる。しかし物語は中盤から、社会へのレジスタンスや現代メディアへの風刺を色濃く帯びた展開へと様変わりする。
重心のズレは明確だ。単純な逃走劇から、番組そのものや社会構造へのカウンター——いわばレジスタンス的な物語へと移行していく。原作『The Running Man』の持つ風刺性を強めた解釈とも受け取れるが、その分「ひたすら逃げ続ける快感」は削がれている。
逃走劇としては中断が多く没入が途切れる。反体制ドラマとしては踏み込みがやや浅い。どちらも成立しきらない、という感触が最後まで残った。
個人的にはとにかく逃げる姿が見たかった。なりふり構わず走り続けるスリリングな逃走劇。巧妙な隠密行動と、ハンター側が「奴はどこにいる!?」と焦燥に駆られる攻防——そういう映画を期待していた。
結末は逃げ切りからの反撃でエンドロールを迎えるが、何を描きたかったのかが中途半端だと感じてしまった。
病を患った娘は助かったように描かれ、一見ハッピーエンドだ。しかし妙なモヤモヤが残る。それはストーリーの矛盾や難解さのせいではなく、TV局のトップを倒しても社会は何も変わらないという現実感のせいだろう。作中で「当局」と呼ばれる存在に、あっさり潰されてしまうのではないか——そんな想像が止まらない。
批評から入ってしまったが、楽しめない映画というわけではない。クオリティは一定水準以上で、爆発シーンは派手。アクションはきちんと担保されており、ある程度の興奮は保証されている。133分と若干の長尺ではあるが、それに耐えうる完成度は持っている。
世界観の作り込みが圧巻——"壊れた近未来"を体現するアンバランスな美術
本作の最大の見どころは、その世界観の作り込みにある。
支配層と下層民が完全に分断されたディストピア社会。テレビ番組の娯楽として人が殺されることが許容され、「当局」と呼ばれる存在がすべてを管理している。そんな歪んだ世界で、賞金10億ドルを懸けた逃走劇が幕を開ける。
10億ドル——正直ピンとこない。日本円で約1,600億円(本レビュー執筆時点)。やはりピンとこない。
大体、日本長者番付の50位前後に入るか入らないかくらいの額らしい(資産ベース)。年収ベースで考えてみようとしたが、これもなかなか難しい。YouTuberのヒカルが最盛期に年収約50億円と聞いたとき、私とヒカルの差は太陽と月ほどだと思った。しかしヒカルとガチのトップ層との差は、太陽系と銀河系くらいの開きがある。
孫正義(ソフトバンク)で年数千億円。柳井正(ユニクロ)に至っては、1日で約27億円を稼ぐという。年換算なら1兆円超だ。さらに世界トップのイーロン・マスクは、2025〜26年にかけて資産が約80兆円増えたとされる。日本ごと買えそうな額だ。
……話がそれた。
とにかく、10億ドルは一生遊んで暮らせる大金だ。それだけの賞金を賭けた番組が成立する世界——いかに社会が捻れ、歪んでいるかが伝わるだろうか。
その歪みは、舞台美術にも徹底して反映されている。
自動運転タクシーが当たり前に走る近未来なのに、車の外観も内装も80年代のように古臭い。街並みもホテルも、どこかくたびれた印象だ。そこへ突如として、プロペラもなく浮遊する未来的な球体の追跡カメラが現れる。この両極端なディテールの共存こそが、「テクノロジーは進化したが、社会は少しも良くなっていない」という世界の本質を雄弁に語っている。
洗練とは程遠い近未来。そのバランスの取れたアンバランスさ、矛盾の両立こそが本作の特筆すべき魅力だ。壊れた世界の"壊れ方"を、美術の隅々まで使って見せつけてくる。
「逃走劇」としての設計が惜しい——『ランニング・マン』が届かなかった、あと一歩
本作を「惜しい」と感じた最大の理由は、逃走劇としての設計にある。
ハンターの脅威が薄い。5人のプロ殺し屋から成るハンター陣は、設定上は最高度の殺人スキルを持つ精鋭のはずだ。それなのに、ベン一人に押し返される場面が目立ちすぎる。「見つかったら終わり」という圧が持続しないのだ。序盤のホテル襲撃シーンで走った緊張感が、中盤以降はどこかへ消えてしまう。
加えて、本作は「逃げる映画」ではなく、いつの間にか「反撃する映画」になっている。個人的には、なりふり構わず逃げ続ける姿が見たかった。「奴はどこにいる?」とハンター側が焦燥に駆られ、空間を使った隠密の駆け引きが積み重なる——そういう映画を期待していた。鑑賞後に「ランニング・マンじゃなくてウォーキング・マン」という感想を見かけたが、言い得て妙だと思う。
さらに中盤以降、レジスタンス的な展開が挟まることで、逃走の緊張が分断される。構造として意図は理解できる。メディアへの風刺、SNS社会への批評——エドガー・ライトが原作の持つ社会批判を現代に接続しようとした姿勢は伝わる。しかし「逃走劇」と「反体制ドラマ」の二兎を追った結果、どちらも成立しきらなかったという感触が残る。
そして決定的なのが、"ゴールの曖昧さ"だ。ベンは確かに勝利した形でエンドロールを迎える。娘も助かったように描かれ、一見ハッピーエンドだ。しかしTV局のトップを排除したところで、この社会は何も変わらないのではないか。上述したが、劇中で「当局」という曖昧な存在が示されている時点で、むしろその後にあっさり潰される未来すら想像できてしまう。これは「逃げ切った」話ではなく、「どこにも辿り着いていない」話でもある。
だからこそ本作は、逃走劇としても、レジスタンスものとしても、あと一歩届かない。面白くはある。でも「もっとやれたはずだ」という感触が最後まで拭えない作品——それが正直な評価だ。
こんな人におすすめ!
レビューで「惜しい」と書いたが、刺さる人には確実に刺さる映画だ。以下に当てはまるなら、観て損はないと思う。
- 『イカゲーム』『今際の国のアリス』などデスゲーム作品が好きで、その源流を辿りたい人
- 派手な逃走劇よりも、社会構造やメディアへの批評が込められた作品を好む人
- エドガー・ライト監督の作家性、スタイリッシュな映像センスのファン
- グレン・パウエルの「追い詰められた男」を見たい人(ヒーローではなく、ただの父親として)
- スッキリしない後味も含めて"映画体験"だと受け取れる人
娯楽として消費される"死"を、私たちはすでに知っている
鑑賞後、しばらく妙なモヤモヤが続いた。それはストーリーへの不満ではなく、もっと個人的な不快感だ。
炎上動画をスクロールしながら眺めていたこと。誰かが追い詰められていく様子を、どこか他人事として消費していたこと。本作が描くデスゲームの観客と、自分のあいだにどれだけの距離があるだろうか——と、ふと考えてしまった。
スッキリ爽快な映画ではない。万人に勧められる映画でもない。それでも、鑑賞後に何かが引っかかり続ける映画というのは、それだけで十分に価値があると思っている。
この作品が問いかけてくるものを、どう受け取るかはあなた次第だ。
映画『ランニング・マン(2025年)』の作品情報まとめ(監督・キャスト・配信情報など)
- 監督: Edgar Wright
- 出演: Glenn Powell, William H. Macy, Lee Pace, Michael Cera, Emilia Jones
- 公開年:2025年
- 上映時間:133分
- ジャンル:アクション
