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タコが導く、静かな奇跡――Netflix『親愛なる八本脚の友だち』レビュー【ネタバレあり】

『親愛なる八本脚の友だち』は、2026年配信開始のアメリカのヒューマンドラマ映画。シェルビー・ヴァン・ペルトのベストセラー小説を原作に、オリヴィア・ニューマンが監督を務めた。
孤独な女性と高い知能を持つミズダコの交流を描いた心温まる物語。小さな町の水族館で夜間清掃員として働くトーヴァは、家族を失った悲しみを抱えながら暮らしていた。そんな彼女は、ミズダコのマーセラスや人生に迷う青年キャメロンと出会い、止まっていた時間を少しずつ動かしていく。
トーヴァをサリー・フィールド、キャメロンをルイス・プルマンが演じる。共演はコルム・ミーニイ、ジョアン・チェン、キャシー・ベイカー、ベス・グラントほか。

www.netflix.com


『親愛なる八本脚の友だち』温かい海の不思議な交流


なぜマーセラスは、ただの動物キャラクターでは終わらなかったのだろうか。

Netflixオリジナル映画『親愛なる八本脚の友だち』(原題:Remarkably Bright Creatures)を観ていると、気づけば人間たち以上にミズダコのマーセラスの言葉や行動に引き込まれている。皮肉屋で少しおせっかい、それでいて誰よりも他者を見つめている彼の存在は、この映画の大きな魅力だ。

サリー・フィールド演じるトーヴァ、ルイス・プルマン演じるャメロン、そしてそれぞれが抱える孤独や喪失を、マーセラスは独特の距離感で見守り続ける。単なるマスコットではない。ときに傍観者として、ときに人と人を結びつける案内人として、この物語に欠かせない存在として機能している。

視聴前は「ファンタジー寄りの映画かな?」と思っていた。ところがどっこい、本作はギリギリのラインを攻めたヒューマンドラマだった。マーセラスがタコである必然性、ファンタジーに振り切らない巧みな線引き、そして悪人を一人も作らない人物描写。今回のレビューでは、そのあたりをじっくり掘り下げていく。

※本レビューはネタバレを含みます!

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『親愛なる八本脚の友だち』レビュー|タコのマーセラスはファンタジーか、それとも現実か【Netflix】

ネットフリックスオリジナル映画『親愛なる八本脚の友だち』(原題:Remarkably Bright Creatures)。シェルビー・ヴァン・ペルトのベストセラー小説が原作で、ニューヨーク・タイムズのハードカバー小説ベストセラーリストに64週以上ランクインした話題作だ。原作は2022年の発売以来200万部以上を売り上げ、30回増刷されているという、相当なバケモノ作品である。視聴前はあらすじを読んで、「ん、ファンタジー寄りの映画なのかな?」と思っていた。ところがどっこい、かなりギリギリのラインを攻めていて、巧いことファンタジー映画にはさせずに、偶然とも取れる、現実でもありそうな、綱渡りのような感じで物語は進む。かと言って危なっかしい感じではない。非常に安定感を持ってストーリーは進行するのだ。

ファンタジーにも現実にも振り切らない絶妙な線引き

本作で印象的だったのは、ミズダコであるマーセラスの行動をどう解釈するかが視聴者に委ねられている点である。

なお、マーセラスの声を担当しているのはアルフレッド・モリーナで、彼は画面には登場せず、タコのナレーション&内なる独白を声で演じている。この演出もまた絶妙で、マーセラスは「思考している存在」として描かれながら、あくまで画面上はタコである。

タコが無脊椎動物としては異常なほど知能が高いということは知っていた。人間でいえば三歳児程度とも言われるが、実際のところは単純に比べられるものではない。「賢い」と「人間のように考える」は別物なのである。タコの神経細胞は約5億個とされ、犬に近い規模だ。しかし、その多くは腕に分散しており、人間の脳のような集中型ではない。各腕が半ば独立して情報処理を行うため、知能の仕組みそのものが人間とはかなり異なる。

映画のマーセラスについて考えるなら、現実のミズダコができそうなことは、

  • 人物を見分ける
  • 好き嫌いを持つ
  • 特定の人に興味を示す
  • 物を集める
  • 状況に応じて行動を変える

あたりだろう。一方で、

  • 人間の家族関係を理解する
  • 親子の再会を計画する
  • 指輪の感情的価値を理解する
  • 長期的な作戦を立てる

となると、現実の科学的知見をかなり超えている。

だから本作は絶妙なのだ。マーセラスは、「現実のタコより少し賢い」くらいの描き方に留めているからである。

もし本当に超知能生物として描くなら、『E.T. the Extra-Terrestrial』や『ショート・サーキット』のような存在になってしまう。

特にクライマックスでトーヴァがマーセラスを海に帰す場面。作中ではトーヴァとマーセラスは何度もお互いの手を握るから、ひょっとしたら指輪をマーセラスが手渡すんじゃないかと思った。でも、結局その指輪はマーセラスを入れていたバケツに残されていて、巧い線引きをしたなぁと思った。マーセラスが直接トーヴァへ指輪を手渡さないことで、「賢い動物」の範囲にギリギリ踏みとどまっているのである。

また、「理解しているように見える余白を残した作品」とも受け取れる。そこが「巧い線引き」に繋がっていると思う。

指輪をめぐる解釈の余白――意図か、偶然か

指輪を見つけたことも、トーヴァとキャメロンを結びつけたことも、「意思を持って導いた」と考えることはできる。一方で、偶然が重なっただけとも解釈できる。

もしマーセラスが直接指輪を渡したり、人間の運命を操るような描写があれば、映画は一気にファンタジーになっていただろう。しかし本作は最後までその一線を越えない。だからこそ、マーセラスは賢い動物にも見えるし、不思議な導き手にも見えるのだ。

タコは単なる反射だけでなく状況に応じて行動を変えるため、「問題解決能力が高い無脊椎動物」として有名だ。しかし、

指輪を見つける
  ↓
それがトーヴァにとって重要だと理解する
  ↓
後日それを使って人間関係を修復する

ここまでの因果関係を現実のミズダコが理解できるという証拠はない。だから映画は巧妙なのである。

マーセラスの行動は、

  • 「人間並みの知性を持っていた」
  • 「たまたま物を集める習性が結果的に役立った」
  • 「トーヴァたちが意味を見出しただけ」

のどれにも見えるように作られている。だからこそラストシーンの指輪の場面は映画でも重要なポイントで、マーセラスを魔法の存在にしないためのブレーキとして機能しているように私には見える。

ちなみに、マーセラスのモデルになったのはバンクーバー水族館のオオタコ「アグネタ」で、何時間もアグネタを撮影し、CGIと組み合わせてマーセラスのシーンを作り上げたという。モデルになった実在のタコがいる。それもまた、本作がファンタジーに逃げなかった理由のひとつかもしれない。

「タコの語り手」はファンタジーではない――夏目漱石から読み解く

「いや、マーセラスは頭で語っていたから、ファンタジーでしょ?」と反論があるかもしれない。しかし考えてみてほしい。夏目漱石の『吾輩は猫である』はファンタジーだろうか? 語り手は猫である。作中では人間のように考え、物語を形作る。しかしながら、かの作品はファンタジーではない。

実は、原作のAmazonレビューでも「水槽越しに人間を見るマーセラスの観察力は鋭く、猫目線で人間社会を皮肉った『吾輩は猫である』に匹敵する」という声がある。私が感じたことは、どうやら原作の英語読者も同じように受け取っていたらしい。

例えば『不思議の国のアリス』のように、作品世界そのものが幻想的なルールで動いているならファンタジーと呼ばれやすい。一方、『吾輩は猫である』は現実の日本社会を描くために「猫の語り手」という仕掛けを使っているだけで、世界観そのものは現実的である。文学研究では、このような作品を「擬人化」や「寓話的手法」と呼ぶことはあっても、通常はファンタジー文学には含めない。

同じく本作『親愛なる八本脚の友だち』も、「タコの語り手」という仕掛けを使っているだけで、世界観そのものは現実的である。マーセラスは明確に自身の行動目的を言語化しない。指輪の件も、「あの指輪こそ僕が必要とする証拠だ」とだけ、曖昧に表現する。作中では思考はしているが、「こうしよう」「こうしたい」とは示さない。示さないよね? また再視聴して確かめたりしないぞ?

あくまで、「このタコはこんなコト考えてそう」という表現に留めている。だから、ファンタジーではないのだ。

 

なぜ犬や猫ではなくタコだったのか?――マーセラスである必然性を考える

タコのマーセラスは、映画の中で物語の進行役・案内役として機能している。がしかし、本作『親愛なる八本脚の友だち』は、なぜ犬や猫ではなく、タコだったのか? というかそもそも、動物が必要だったのかどうか? ということに触れてみよう。

私が考えるに、マーセラスがタコである理由は大きく二つある。

理由①|犬や猫では、この物語は成立しなかった

犬や猫ではダメなのか? 答えから言うとNOだ。マーセラスは海に帰る必要があった。彼が海に帰ることで、トーヴァは「自分の居場所はやっぱりここだ」と再確認できたし、息子の死と向き合い立ち返る意味でも重要な場面だった。

犬や猫だと、人や家に付いてくるから、野に返すということができない。ただの捨て犬・捨て猫になってしまう。

また、犬や猫だと人に懐きすぎるし、タコのような意外性がない。鳴き声や尻尾を振るなどするから、感情を推し測れてしまう。

これは重要なことだ。マーセラスはトーヴァの手を握ったり、興味を示したり、まるで感情があるかのように振る舞う。しかし彼に意図があってのことかどうかは分からない。

マーセラスの行動を、トーヴァやキャメロンが後から意味付けする、ということがファンタジーに寄りすぎないためにも必要なのだ。

何を考えているかわからないヤツのやったことが、意図があろうがなかろうが、結果的に人の為になった。だから「ひょっとして?」という気持ちが生まれ、より感情移入できる。タコという生き物の「読めなさ」が、この映画の余白を作っている。

さらに、犬や猫だと飼っている感覚になるが、タコだと友だちとして扱える、という点も見逃せない。

実際、トーヴァとマーセラスの関係は飼い主とペットではない。トーヴァは餌を与えたり世話をしたりするが、どちらかと言えば対等な会話相手として接している。

原題が示す「賢い生き物たち」の意味

だからこそ、原題

『Remarkably Bright Creatures(驚くほど賢い生き物たち)』

も、日本語タイトルの

『親愛なる八本脚の友だち』

も、意外と本質を突いているのかもしれない。

気付いてほしいのは原題だ。"Creatures"と複数形になっている。つまり「生き物たち」とはマーセラスだけではなく、トーヴァやキャメロンなど人間も含めた意味合いを持たせているのだ。

トーヴァも、キャメロンも、自分を愚かだと思い込みがちに描かれている。しかしそれぞれが、思っている以上に賢く、たくましく生きている。そんなニュアンスも"Remarkably Bright Creatures"には込められているのではないか。ひとまとめにして、「生き物たち」。

だからこそ、登場人物たちはマーセラスを飼育対象としてではなく、友だちとして扱えたのだ。

理由②|そもそも、動物は必要だったのか

マーセラスが映画の中でやったことを整理すると、話し相手(というか聞き役)になる、指輪を取り戻す、人間ではない者の視点で物事を見せる、くらいだろうか。

では仮に、その役目を人間に負わせたとしよう。人間版マーセラスだ。まぁ、意外性というか、映画としての面白みに欠ける。

やっぱりそこはタコでなければならない。正確に言えば、「日常的に人間と接する機会の少ない動物」かつ「知能の高い生き物」である必要があった。この2つの条件を同時に満たすのが、ミズダコというわけだ。

マーセラスは単なるマスコットではない。この物語の成立そのものを支える、なくてはならない存在なのである。

 

この映画は悪人を作らない――キャメロンの母親、ダフネという人生

さて、本作『親愛なる八本脚の友だち』には、皆さまざまに想いを抱えたキャラクターが登場する。

息子が亡くなったのは自分のせいではないか、息子は私を憎んだまま死んだのではないかと、長年自身を責め続けるトーヴァ。幼い頃に母親と離れ離れになり、その母も亡くして、父親を探しに街にやって来たキャメロン。

他にも脇役としてそれぞれに悩みを抱えているが、気付けば私はずっと、名前すらほとんど出てこないキャメロンの母親に目が向いていた。

「この人の人生はしんどいな」そう思った人物が、キャメロンの母親だったのだ。

「捨てられた」という認識と、その裏側

もちろん、他人の人生を「誰が一番辛かったか」で比べることはできないだろう。しかしどうしても私は、彼女を想わずにはいられない。

キャメロン自身は、「母親に捨てられた」という認識で育っている。視聴者も、最初はその視点で見る。しかし物語が進むと、

  • 恋人を亡くした
  • 若くしてシングルマザーになった
  • 頼れる人が少ない
  • 生活が安定しない
  • 子どもを育てながら各地を転々とする

という背景が見えてくる。

映画では「母親に捨てられた」という事実が客観的に確定しているわけではない。ただし、キャメロン本人は長年そう受け取って生きてきた。かなり微妙な描き方になっている。

作中で明かされる情報を整理すると、

  • ダフネ(母親)は恋人エリックを事故で失った
  • その時すでに妊娠していた
  • 若くしてシングルマザーになった
  • 安定した生活を送れなかった
  • 最終的には車上生活に近い状態になる

という経緯がある。

もちろん彼女の選択を肯定する必要はないが、"ひどい母親"という一言では片付けられないことが分かる。映画は「母親が息子を見捨てた」と断定する作りではなく、「追い詰められた末に育てきれなくなった女性」として描いているように見える。

私は馳せる。彼女は多分必死だったろう。息子を生かすために。キャメロンの記憶の中ではひどい母親かもしれないけど、多分必死だったと思う。

「愛していても、人生に負けることはある」

この映画は、「母親はキャメロンを愛していたのか?」という問いに答えない。そうではなく、「愛していても人生に負けることはある」という方向に寄っているように見える。

より正確に言うなら、キャメロンは"捨てられたと思って育った"が、映画はそれを単純な育児放棄としては描いていないのだ。

この映画は、悪人探しをしない。トーヴァも悪くない。キャメロンの母親も悪くない。亡くなった息子も悪くない。キャメロンも悪くない。みんな何かを失い、何かを間違え、それでも生きている。

だから私は「誰に感動したか」よりも、「それぞれ事情があったんだな」という方に目が向いているのだと思う。

白黒をつけない、この映画の人物描写

『親愛なる八本脚の友だち』は、序盤こそ後ろ暗い過去があれど、誰かを責める物語ではなかった。

トーヴァは自分を責め続けていたし、キャメロンは母親を責めていた。しかし真実が明らかになるほど、誰か一人を悪者にできる話ではなくなっていく。特にキャメロンの母親は、恋人を失い、幼い子どもを抱えながら必死に生きていた人物として浮かび上がる。

そして、その過程を人間ではなくマーセラスという少し距離のある存在が見つめている。

前の章で触れた「巧い線引き」と同じで、この映画は人物描写にも白黒をつけない。そこが特徴なのかもしれない。

人は時に間違え、すれ違い、後悔を抱える。それでも人生は続いていく。マーセラスによって明かされた真実は、誰かを裁くためではなく、それぞれが前を向くためのものだったのだ。

 

こんな人におすすめ!『親愛なる八本脚の友だち』

以下に当てはまる人には、かなり刺さる映画だと思う。

  • 「泣けるだけの映画」じゃなく、考えさせられる映画が好きな人
  • ファンタジーと現実の境界線が曖昧な、余白のある作品が好きな人
  • 動物もの・生き物ものが好きだけど、お涙頂戴は求めていない人
  • 家族の喪失や後悔など、静かに重いテーマを描いた映画に耐性がある人
  • 「誰が悪い」じゃなく、「みんなそれぞれ事情があった」という描き方が好きな人

逆に、痛快な展開やはっきりした結末を求めている人には、少し物足りないかもしれない。本作はどちらかといえば、観た後にじわじわくるタイプだ。

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マーセラスが残したもの――観終えた後に思うこと

観終えてしばらく経っても、マーセラスのことを考えてしまう。

彼がトーヴァやキャメロンの人生を「導いた」のか、それとも「ただそこにいただけ」なのか、今もよく分からない。でも、分からなくていいのだと思う。この映画はそういう映画だ。

タコに意図があろうがなかろうが、結果的に誰かの人生が動いた。それをファンタジーと呼ぶかどうかは、観た人が決めればいい。少なくとも私には、現実の延長線上にある話として映った。

トーヴァも、キャメロンも、名前すら多く語られないダフネも、みんな何かを失いながら生きていた。悪人はいない。ただ、人生に負けそうになっていた人たちがいた。

マーセラスは最後、海に帰っていった。それだけのことなのに、なぜかずっと頭に残っている。

そういう映画だった。

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映画『親愛なる八本脚の友だち(2026年)』の作品情報まとめ(監督・キャスト・配信情報など)

  • 監督:オリヴィア・ニューマン
  • 出演:サリー・フィールド, ルイス・プルマン, コルム・ミーニイ, ジョアン・チェン, キャシー・ベイカー, ベス・グラント
  • 公開年:2026年
  • 上映時間:113分
  • ジャンル:アニマル, ヒューマンドラマ

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